最終更新日:2024年1月16日
2020年大河ドラマの主人公「明智光秀」の福井市ゆかりの地をご紹介します。
光秀の屋敷跡と伝わる場所に「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠・「明智神社」があり、中には高さ13センチメートル程の木彫りの光秀座像が祀られています。この木像は東大味町の3軒の農家が「生きているのは光秀公のおかげ」と、光秀の像を密かに400年以上守り続けてきたと伝えられています。
祠は明治19年(1886)にこの農家の発願で建設されました。光秀が柴田勝家・勝定に依頼して出させた安堵状によって東大味は戦禍から救われたが、その後、光秀は戦乱の世の中で主君信長を打ち秀吉に敗れ、「逆臣」の汚名をきせられました。さらに時代が進み、歴史上から光秀の評価が抹殺されることになった中で、光秀を祀ることは許されることではなく、世の非難、中傷は絶えなかったのでしょう。
逆臣、裏切り者と称される光秀だが、約10年間身を置いた地、越前に感謝し、住民を思いやる姿こそが、光秀の本当の素顔ではないでしょうか。
福井市 東大味町
アクセスはこちらのページをご覧ください。
近年、歴史的評価が変わり、400年もの長い期間、たった3軒で守られてきた明智神社の管理が町(区)に移管されることになり、全町民からなる「明智神社奉賛会」を組織し、毎年6月13日(光秀命日)には法要を営んでいます。
明智神社を管理する明智神社奉賛会ホームページはこちらをクリック(新しいウインドウが開きます)
明智光秀ふくいゆかりの地MAP(PDF形式 29,834キロバイト)
ゆかりの地に関する情報は「ふーぽ」内にも紹介されております。こちらからご覧ください。(新しいウインドウが開きます)
光秀は、室町時代に美濃国(岐阜県南部)の守護を務めた土岐氏の一門で享禄元年(1528)明智城(岐阜県可児市)にて明智光綱の子として出生。天文12年(1543)に元服したの後、妻木城主の娘煕(ひろ)子と結婚。弘治2年(1556)美濃の実権を握っていた斎藤家の内紛に巻き込まれ、敗者方についた光秀は美濃を追われ、越前に逃れたという説があります。
越前では、称念寺(福井県坂井市)の門前に妻子を仮寓させ、旅に出て文武両道をみがき、特に堺では火縄銃の技術を習得。加賀の一向一揆が越前に襲来した際、光秀は朝倉軍に与し、勝利に貢献。これを機に、朝倉義景に鉄砲指南役として仕官したという説があります。一乗谷朝倉館への大手筋にあたる東大味に5年間住み、ここで、娘・玉(ガラシャ)が生まれたとされています。
永禄10年(1567)に、朝倉義景に上洛の協力を求めて足利義昭が一乗谷を訪れ9か月滞在。光秀は義昭の家臣・細川藤孝を通して、義昭にも仕えるようになりました。
福井市役所 〒910-8511 福井県福井市大手3丁目10番1号 代表電話番号 0776-20-5111 営業時間 平日8時30分から17時15分 |
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